2009年12月3日木曜日

好きな戦国武将BEST2

こんばんは、s.a.iです。

やべぇ、ごっつぅ書いてなかった><
とりあえず『坂の上の雲』面白いぉ^^

というのは置いといて、さっそく行ってみましょうか、第2位です。

平手政秀
1492~1553
中務丞、通称五郎左衛門

織田信秀の家老で、信長の後見人。信秀の代理人として公家をもてなしたり、名代として上洛するなど、かなりの実力者。
信秀の死後、林通勝と共に信長の家老に任命されたのも当然といえよう。

そんな政秀だが、最も有名なのが、彼の死に際である。信長の自由奔放な振る舞いは当主となってからも続いた為、その行いをいさめる為に切腹したと言われている。
だが、記録にはこんな話も残っている。
政秀の嫡男が持っていたという駿馬をめぐり、信長が強引に奪おうとした為に主従の仲が不仲になったとある。配下のものを奪おうとした信長に立腹したのか、それとも主人の命に応じなかった嫡男の行いを恥じたのか・・・。
どちらにしても、この死によって、信長が反省したということは間違いないでしょう。

その後、政秀の死を悼み、小木村に建てられた政秀寺は、後に清州から名古屋へと移されたといいます。信長は折にふれては政秀を想い、鷹狩に出ては獲物を裂き、宙に投げては『政秀よ、喰うがいい』と言ったと言います。
死んでも尚・・・というフレーズはよく聞きますが、死して主人を諌め、且ついつまでも想ってもらえるなんて、とても名誉なことじゃないかと思います。
よく政秀がもっとしっかりと教育していれば信長はこんなにもやんちゃにはならなかったなどと聞きますが、政秀こそ、一番の信長の理解者だったと思います。信長の行動の裏にある理由、それを理解していたからこそ、自由に育ち、形に囚われない性格が形成されたのだと思う。

なんにしても、これだけ信長に影響を与えた人物。彼なくして信長はいなかったと思います。
ってことで、今回はここまで。
ではまた

2 件のコメント:

  1. 似たような逸話は結構あるけど、
    この人の話が一番有名だろうねぇ。
    実際には信長の後見人ってよりかは
    信秀の片腕ってイメージが本当なんだろう。。。
    まぁ、子や孫も信長の忠臣みたいだから、
    そう言う美談も生まれたのかもねぇ

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  2. 先生>
    うん、正解♪
    信秀の片腕時代での政秀の評価はあまり残っていないけど、かなりの実力者であった事は事実。また武将というよりも内政者ってイメージが強いけど、信秀に従って戦地に赴いた事がないって訳ではないし、率いた兵数も織田軍の中でかなりの数だったので、相当の戦果を挙げている事でしょう。
    彼が生き残っていたならば、林道勝ももっと戦果を挙げて追放されずに済んだかもしれないですね。
    (ってのは考えすぎかww)

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