2009年8月30日日曜日

せんきょ

こんちあ、久々に書いてます。s.a.iです。

せんきょ行ってきましたw
久々に行ってきたな~w

僕のところ、小選挙区の立候補、自民、民主、無所属の3人しかいないでやんのw
しかも無所属の候補者は、例の大〇リュー〇ーの幸〇実〇党だとかなんだとか…。

うわぁ、どこにもいれたくねーなーwww

でも下手なこと書いて無効票にするのももったいないし…
という事で、とりあえずどっかに入れることにしました。
(どこに入れたかは言わないけどねw)

比例代表は、支持しようと思ったところへ入れました。
(自民、民主じゃないぉw)

って事で、僕の1票も反映されるといいなぁ~w
と思う今日この頃でした♪

2009年8月22日土曜日

う”ぁぁぁ

だらだらだらだら…
あ”~、s.a.iです…

明日提出のレポートがあるのに、手が付かない…。
やる気しねぇ…

2009年8月19日水曜日

追記しますか

こんばんは、s.a.iです

先日まで書いてた『神道』について、読み返してみて、説明に足りないなぁと思う処をちょっとづつ調べ中です。いろいろと追記していく予定なんでお待ちをw

1回目は『宗像大社』について、リクがあったので書きます。
といっても、現在考え中~~~w
次回書くねw

ではまたw

2009年8月15日土曜日

知ってるようで知らない神道、その20

こんばんは、s.a.iです。

今回は、『狛犬ってかわいい』が題目ですw

では、どうぞ!












ハイ、狛犬ってかわいいですねwww
ってことで、今回の連載のオチでした♪

2009年8月14日金曜日

知ってるようで知らない神道、その19

こんにちは、s.a.iです

さてこの連載の真の目的である靖国神社について、やっと書く事ができます。
ここまで長かった…w
では行きましょう!

靖国神社
東京都千代田区九段北にある神社です。
元々は、東京招魂社と呼ばれる鎮魂社であり、明治2年6月29日に戊辰戦争での戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により創建された社です。
もともと招魂社は、 文久二年(1862)の討幕運動で非命の最期をとげた尊皇の志士を京都東山の霊山に祀り、翌年、八坂神社境内に小祠を建立したのが始まりです。討幕派諸藩でも招魂慰霊が多くされて、日本各地にこういった招魂社は存在します。
その中で一番大きいのがこの靖国神社の前身である東京招魂社です。その後、明治12年6月、その年の2年前の西南戦争で爆発した新政府への不満を和らげ、七千人近い政府軍の戦死者を祀り、合わせて国家への忠誠心を堅めさせるには「魂を招く社」では不十分として、「国を靖(やす)める社」にかえ、東京招魂社は別格官幣社靖国神社となりました。
この時より、国を興す為に散っていった崇高な魂を祀り慰霊する社から、国家への忠誠の象徴ともいえる存在へと意味合いを変化させました。

この当時は政府の力よりも軍部の力の方が強く、忠誠心の強い兵士を必要としていた為に利用されたのが、『国家神道』と呼ばれる神道を曲解したものです。(と僕は認識してます)
それ以降、戦争による戦没者を合祀していくことで戦争中、特攻する時などの言葉の掛け合いなどに、靖国で会おうなどと残すようになります。こうして国に忠誠を示す象徴的なものになった神社は単なる戦没者の慰霊碑、慰霊社ではなくなってしまうのです。

こんな感じで戦没者を祀る神社となった招魂社ですが、大元の考えは古代から続く神道の考えに基づくものです。精霊信仰、祖霊信仰を大元とする神道において、どんな人であっても亡くなった後は祀られるもの。たとえそれがA級戦犯者として、後世にまで言われてしまうような人であっても心は清いものであるという考えからくるものが神道です。
集落単位でいうと、亡くなった後に祀られたものは大国主命となりますし、1家族単位でいえば、亡くなった親族は家を守ってくれる存在になります。
これと同様に、単位が大きくなったもの。それが靖国神社だと考えます。集落、家族の為に生き亡くなった人を祀るのと同じく、国の為に生き、そして亡くなった人を祀る。そうすることで亡くなった人たちによって国は守ってもらえる。だからこそ、生きている僕らが祀り、拝み、将来の心の支えとする。それが靖国神社の役割です。

終戦日である明日、多くの政治家をはじめとする著名人達が挙って参拝しに行くことでしょう。ですが彼らに本当の参拝の意味を知るものはどれだけいるのでしょう?
日本を守る祖霊達に顔向けできる人がどれだけいるのだろう?
自分達の利権しか考えられず、国そのものを顧みない政治家、天下り大好きな官僚達に祀られて、祖霊達はどう思うのだろうか…。彼らにはもっと禊をしてもらいたい。言葉の上の禊ではなく、心から禊をして、穢れた考えを除き、本当に国に尽くしてほしいものです。

そうすれば、なぜ靖国神社へ参拝する必要があるのか…。靖国神社への参拝にどんな意味があるのか…。そういった事もちゃんと説明できるようになるのではないかと思います。各国が非とする靖国参拝もはっきりと答えられるようになれば納得できるはずです。
単なる内政不安を解消する為だけに反日感情を煽るような事に利用する国や利益を得たいがために弱みを掴んだと勘違いしていつまでも強請ってくる国などは、自分の行いの醜さに気付くべきであると考えます。
ま、どこの国とはいいませんけどねw

2009年8月13日木曜日

知ってるようで知らない神道、その18

おはようございます、s.a.iです。

お盆です。
ちゃんとお迎えをしてご先祖様に感謝をしなくちゃですw


さて本題
今日は、先祖供養とお墓についてです。
古代から、亡くなった人は神様になるという祖霊信仰はすべてのものを神としてとらえる古代からの思想によるものです。
その為、祖霊を祀る祭りも祖霊供養の一つといえます。
神道を信仰する家において、先祖の位牌を家の中に置いた御霊舎(みたまや)を祀っています。これは、亡くなった親族が、亡くなった後に神様になり自分達を守ってくれるという考えの下で行うことであり、祀ることで亡くなった後も身近にいてくれるという思いから、親族の死を悲しまずに済むという思いが込められています。また、いつも守ってくれているんだという思いから、元気付けられるのです。

死んだ人は神様になるという思想。それは、全ての死者に適用されます。たとえそれが大罪人であろうと不慮の事故による死者であろうと分け隔てることなく同じ扱いをうけることができます。多くの宗教において、自殺が最も罪深いとしている節があります。しかし、神道においてそういう思想はありません。それは、以前話した『穢れ』と『祓い』の考えにも繋がるのですが人は元々清い心を持っていて、穢れた為に罪を犯してしまうという考えから、罪自体は悪いこととしても、犯した人には恨みなどないというのが神道なのです。
仏教において、1周忌、3回忌…などという供養があるが、これも元々神道における考えです。神道において、式年祭という祭りを行います。これを、1年祭、3年祭、5年祭…といいます。神道においても、仏教においても、先祖を供養するという考え方は、古代から続く日本人の思いからくるものだと思います。

古代から、日本人はお墓を山のふもとに作る傾向にありました。現在でも古い墓地は山にあることが多いです。これは、墓所が神の世界の入口に過ぎず、おりを見て先祖は集落に降りてきてくれる。それには神が住む山に近い方が都合がいいという考えに基づきます。
ところが、江戸時代に入り、墓地の運営を寺院に取り仕切らせることにより、墓地が寺院の傍に造られるようになった。これにより墓地が山から切り離されることになったといいます。

先祖を敬い、祀るという行為は古くなら続く大切な行いです。めんどくさいなどと言わず、行ける人はちゃんと行きましょう。その行いは必ず先祖を癒すことに繋がり、しいては己の心も癒すことになると僕は思っています。

2009年8月11日火曜日

知ってるようで知らない神道、その17

こんにちわ、s.a.iです

早くも連載17回目(間に補足とか入ってるからもっとだけど)
そろそろ終わりが見えてきた。
ってか、台風コース外れたじゃんかw
大雨だと思ってたから引きこもり計画だったのにw

まぁ、いいやw

では本題。
今回は神前結婚式について

元々日本において、結婚式を呼べるものは存在しなかった。よく時代劇で祝言を挙げているシーンは多くあるが、あれは江戸時代に入ってからの風習であり、それ以前の日本において、それらしい事は行われていても、形式として決まった形はなかったと言われています。また祝言に相当する形の大宴会や、披露宴は行われていたとあるので、これを結婚式と位置付ける事もあります。神道における形式としての神前式は1900年(明治33)5月10日に皇室御婚令が発布され、皇太子(後の大正天皇)の御婚儀が初めて宮中賢所大前で行われたことがきっかけと言われています。それを受けて国民の間に同じような神前での結婚式を挙げたいという気運が高まり、東京の神宮奉賛会(現在の東京大神宮)が皇室の婚儀を参考に民間での神前の結婚式を創設し、翌明治34年3月3日に模擬結婚式を開催しています。以降、改良や普及活動を行った結果、今日の「神前結婚式」として行われているものが形式化され定着したというのが歴史です。

具体的な式順としては巫女の先導で新郎新婦、媒酌人、新郎両親、新婦両親、新郎親族、新婦親族の順に入場し、最後に斎主が入場します。典儀と呼ばれる司会進行役(巫女が行う場合もある)が式の始まりを宣言し、斎主の拝礼に合わせ一堂が起立して神前に一礼。その後、斎主が幣を用いて穢れを祓う儀式をします。この時、一堂は起立したまま軽く頭を下げ、祓いを受けます。斎主が神前で二人の結婚をその神社に鎮座する神様と氏神様、そして祖先神に報告する祝詞を奏上し、神様の加護を願います。最後に一堂は起立して頭を下げて加護の儀は終わります。

次に三々九度の杯を交わします。一の杯においては、まず新郎が杯を受け、次に新婦、また新郎の順に杯を空けます。二の杯では、まず新婦、次に新郎、また新婦。三の杯は一の杯に同じ。一二三の三度の杯を三回ずつ受けるので3×3=9ということで三々九度と言われているのです。ただ現在は新郎新婦の時間的な制約があるため以下のような略式を用いる神社も多いのだといいます。まず新郎が一の杯を受け、次に新婦がその杯を飲み干す。二の杯は新婦から新郎の順、三の杯は新郎から新婦の順で、どの杯も必ず三口で飲み干すという形式です。
次に、新郎新婦が神前に進み出て誓いの言葉を読み上げます。新郎が本文を読み、自分の名前の部分は新郎・新婦がそろって読みます。(本文は新郎しか読み上げません)玉串を神前に捧げ「二拝二柏手一拝」の順で拝礼し、席に下がるときはお互いに背を向けないように内回りで体の向きを変えて下がります。これは神に対してなるべく自分のお尻を向けない為の配慮です。
新郎新婦に続いて媒酌人、親族代表が玉串を捧げます。両家が親族となった誓いを交わし、両家の親族、新郎新婦、媒酌人が杯を戴きます。最後に斎主が式を無事終わらせたことを神様に報告し、一拝。合わせて一堂は起立して拝礼します。その後斎主がお祝いの挨拶をし、一堂で拝礼。斎主退場の後、新郎新婦、媒酌人、親族の順に退場。
こうして結婚式は終了し、この後に披露宴に移のです。

現在、某日〇トレ〇ドやゼク〇ィによる調査で、神前結婚式をする家は全体の約18%ほどだといいます。またキリスト教式は64%、その他、人前式は16%となっていて、世の女性の関心が、白無垢よりもウェディングドレスの方にあるというのが現状のようです。
貴方はどちらに興味がありますか…?

2009年8月10日月曜日

知ってるようで知らない神道、その16

こんにちわ、s.a.iです

そろそろ終盤、頑張って書いていこうっと。
それより台風すげーなぁ、おい…。

そんじゃ、本題。
現在の神道におけるしきたりといっても、儀礼のようなものですが、参拝をするのに最も適しているとしているのは毎月1日、15日です。また、参拝する前には禊をしておくことも重要です。現代でいうと、シャワーなどで身体を洗っておく位でいいでしょう。また参拝する際の服装は、清潔な格好で行かなければなりません。これも現在でいえば、洗いたての洋服(出来ればアイロンも掛けると尚良し)に着替えることです。
これは、神様に会いに行くのに、不衛生な形で会うという事が、汚れた(穢れた)を意味し、穢れを持ち込む事に繋がると神様が神社に降りてきてくれないという考え方からくるものです。

次に手水舎での手口の洗い方です。
まず、なぜ手口を洗うのかというと、これは拍手と祝詞を行なう手口(さらには心)を清める意味合いを持つ、一つの禊であるとされてます。
手水の作法としては、
1、まず柄杓を右手で持って水をすくい、その水を左手に3回かけて清める。
2、同様に柄杓を左手に持ち替え、右手を3回洗い清める。
3、柄杓を再度右手に持ち替え、すくった水を左手に受けて溜め、この水で口をすすぐ。終わったら再度左手に水をかけて洗う。口をすすぐ際には口が直に柄杓に触れないようにする。
4、これらが終わった後、使った柄杓を洗い清めるが、このときは水を入れた柄杓を立て、柄に水を流すようにして洗う。柄杓を洗うのには次の人のための配慮という意味合いもある。
5、洗い終わった柄杓は元の位置に伏せて置き、最後に口と手を拭紙やハンカチなどでぬぐう。
なお、巫女の補助がつく場合には、作法は巫女の指示にしたがうようにするといいでしょう。

そして、拝礼の方法ですが、鈴鐘を鳴らした後に拝礼をおこないます。これには邪気を払う、音色で神様を呼び寄せて儀式を始めるための合図などの意味合いがあるとされています。
拝礼の基本的な作法は「二拝二拍手一拝」です。
1、拝(直立姿勢から身体を90度折り曲げる礼)を二度おこなう
2、拍手を二度打つ(具体的には、両手を胸の高さで揃えて合わせ、右手を下方向に少し(指の第一関節ほど)ずらし、その状態で両手を二度打ち合わせて音を出し、ずらした右手を再び揃えて祈念を込め、最後に両手を下ろす)
3、再度一拝する(祝詞を奏上する場合は奏上した後におこなう)

二拝二拍手一拝の前後に一揖(身体を45度程折り曲げる会釈のこと)を行うとより望ましいです。祈願を行う場合は二拍手と一拝の間に居住地および氏名と願い事を(声に出して、あるいは心の中で)陳べるのが一般的となっています。また、お礼を述べたい場合も同様です。古代において、拝礼の作法は各神社によってさまざまだったと言われていますが、現在の二拝二拍手一拝に統一されたのは明治時代の神仏分離がされた以降のことだと言われています。ただし、現在でも一部の神社では作法が異なっており、例えば、出雲大社や宇佐八幡宮では「四拍手」です。

これで、神社に行っても恥ずかしくない参拝ができると思います。
忘れずにいましょうねw

2009年8月9日日曜日

知ってるようで知らない神道、その15

こんにちは、s.a.iです

終戦までもうわずか、ここからは巻きで行きます!(ホントか?)

前回は神社への参拝までにあるいろいろなもの(建築物とか)について書きました。
今回は、その続きです。

今回は神殿についてです。
神殿は、古来からの建築方式をそのまま受け継いでいて、さまざまな形式があります。中でも古くならあり、その建築様式を残しているとされているのが、出雲大社と伊勢神宮です。二つの神殿は古くからある様式を残しつつ、古くなった部分を新しいものに取り換えていく意味からも、短期間で建て替えられています。(遷宮といいます)
その為、創建当時からほとんど変わっていないとされ、出雲大社や伊勢神宮の社殿の創建は7~8世紀ごろではないかと推察されています。
創建当時の出雲大社は今日のものよりも更に壮大で長い階段を昇って参拝する約96㍍の高さを持つ建築物であったといいます。現在は約1/4の24㍍です。
出雲大社を軸にする関係大社は大社造という形式が取られてます。また、伊勢神宮の関係社は神明造という形式です。
その他の主だった形式として、住吉神社の住吉造、京都市の上賀茂神社、下賀茂神社の流造、奈良市の春日神社は春日造、大分県の宇佐神社は八幡造、滋賀県の日吉大社の日吉造日光東照宮の権現造などがあります。

こんな感じで日本全国にはいろいろな造りの神殿があるのです。

2009年8月7日金曜日

知ってるようで知らない神道、その14

おはようございます、s.a.iです。

今日は立秋、残暑お見舞い申し上げますw
さて、今日も暑い中書いていきますか。

さて、今日は現代の神道について書いていきます。
今の神社には何があるのでしょうか?
神社のある場所をよ~く見ると、森林の中にあることが多い。そして、神殿の手前には拝殿があり、拝殿の前に賽銭箱があるのがほとんどだと思います。拝殿まで続く道を参道といい、参道の途中には狛犬がいることが多いです、(稲荷神社では、お狐様がいます)
また大きい神社では、神楽殿や手水舎があり、灯篭が並んでいます。
そして、神社の入り口は、一様に鳥居があり参拝者を出迎えてくれます。

これが神社の様相です。では、なぜ森林の中にあることが多いのでしょう?
それは、神殿の後ろに構える森こそが『鎮守の森』と呼ばれる神や精霊が降りてくるとされる神聖な森だからです。多くの神社ではこの森に立ち入ることを遠慮してもらっています。それは神聖な場所だからなのです。

注連縄(しめなわ)とはなんの為にあったか…。それは、この神聖な森に立ち入ることを防ぎ、魔を祓う意味から作られたものです。それから意味が広く取られ、神聖な場所>神聖なものにも使われるようになり、神樹にも使われたり、神棚にも使われるようになっていきました。初めはKEEPOUTだったんですね。

次に、鳥居はなんの為にあるのでしょう…?
鳥居は、そこから先は神々がいる土地であるという区切りです。神々が降りてくる聖地と人間が住む下界を区画する為の通行門、それが鳥居です。
山へ散策に行くと、鳥居だけあって、その先に何もないってことはよくあると思います。それは、この先、この山は聖域、神域であるということを指し示しているのです。
鳥居は古代単なる木で組まれただけのものだったといいます。それは、神々の神域へ『通り入る』為の儀式のようなものだったと考えられています。その為、もの木組みを『通り入る』>『とおりいる』が訛って『とりい』>『鳥居』と呼ばれるようになったと言われています

鳥居をくぐる前の心得として、禊ぐ必要があります。手水舎で手口を洗い身を清めてから鳥居をくぐるのです。ですが、大抵の手水舎は神社の敷地内にあります。出来れば鳥居の手前にて先に禊ぐといいと思われます。それは鳥居をくぐる処から神への参拝が始まっているからなのです。

鳥居をくぐると参道が続いてますが、この道も通り方があります。この参道は、神の世界(この場合、高天原を指すことが多い)から降りていただいた神が神殿まで参られる道でもある為、参拝者が神の歩みを妨げてはならないのです。なので参道は真ん中を避けて端を歩かなければなりません。

参道を歩いていると、両脇に灯篭があります。古代において灯篭は参拝者が暗い中歩くのを補助する為に建てられたものですが、現在では解釈が変わり、神々に捧げる光を灯す為のものとされています。

参道を進み、拝殿の前までくると賽銭箱があります。お賽銭は神様にお願いをする際の手間賃だと思っている人は多いかと思います。ですが、実際は自分の為に納めるものなのです。神道において、神様に願うことは、己に言い聞かせて自己と向かい合う為の行為であります。(穢れた時に禊ぐことと同じです)なので願い事をただ心に思うのではなく、自分と向かい合い、自分に問い詰める為のものであり、必ず納める者ではないのです。昔は穢れた時に禊ぐ際に社会に与えた影響にたいする償いの意味で納め、それが祭りの費用にされたといいます。

と、今回はこんな感じで終わります。
神社への参拝の仕方や意味などが理解できたなら幸いです
次回は、神職の装束などについても書いていきます
ではまた

2009年8月6日木曜日

ちょっと一休み

おはようございます、s.a.iですw

連載はちょっと一休みで、違う事をw

今日、SDガンダム Ggeneration WARS届きました♪
いやぁ、ooいいねぇ~w
グラハムさんかっこいいねぇ~w
当分これだけで遊べそうだw

2009年8月5日水曜日

知ってるようで知らない神道、その13

こんにちわ、s.a.iです



今日もだらだらと暑い一日です。

今回は明治維新に入ってからの神道の変化と周りについてからです。



明治維新後、日本は幕府体制から天皇を中心にした政治に切り替わります。
ですが、以前のままの姿に戻っても、それは退化したのと同じであり当時の世界から見れば、一歩も二歩も世界に出遅れていた日本にとってはマイナスなことでしかなかった。
そこで、当時の政府(長州・薩摩連合)欧米各国の政治を学び、日本の政治にも取り込むことを考え、実践した。
だがここで重要な問題が発生した。
それは、幕府を倒したのが、尊王攘夷派であったということ。
彼らを納得させる形の政府(内閣)を作らなければ、戦争は振り出しに戻り内戦状態になってしまう。そうなれば、占領地を、喉から手が出るほど欲しがっている欧米各国の餌食になることは明白であった。
尊皇攘夷派の反乱を抑えるため、当時の政府は、次のように発表している。

『天皇陛下によって明治維新がなされ、天皇親政が実現された』

つまりはこうである。尊王攘夷派にとって、天皇陛下を奉り、幕府を倒幕することは一つの目標である。
そして、外国の驚異を排除し、神聖なる国を再興すること。
これこそが尊王攘夷の真髄ともいえる。
だが、明治政府は外国の文化を評価し、その政治体制を取り入れようとした。
これではせっかく倒幕したのに、外国に染められては、日本が日本ではなくなってしまう。
なので、尊王攘夷派の思惑とは異なってしまう為、反乱がおきる可能性があった。
なので、天皇陛下が親政を敷いて、その政治の仕組みをして、合理的な欧米の方式を取り入れようという発表をしたのである。



こう言われては、尊王攘夷派もただ黙って言う事を聞くしかなかったのである。



明治政府は、積極的に欧米各国の重火器を日本国に取り入れなければならなかった。

なぜなら、このころから、重火器の拡充こそが国力を高める(つまり富国強兵)最重要項目であったからである。だが、江戸時代より続く国学が染み込んだ庶民に対して説得しなければならない政府は、古来からの神道による神々への祭り(政(まつりごと))を判る形にしなければならなかった。
その為、明治元年(1868年)に仏教の影響を受けた神道を完全に仏教と切り離す政策が打ち出された。それが、『神仏分離令』である。

平安時代の半ばより、少しづつ神仏習合されてきた為、神は仏事を喜ぶものとされてきた。それもあって、多くの神社では、読経されることも少なくなく、また神社において、坊主が説法するなんてことは多々見られた。しかし、明治政府が打ち出した法律により、こういった社僧(しゃそう)達はその職を失うことになった。更に、神仏分離令によって、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という考えが蔓延し、多くの寺院が取り壊されるという事態を招いた。正確な数字はわからないが、これによって、当時の寺院の約半数が無くなったと言われている。ただし、この法律が出来たからこの事態を招いたとは言い切れない。なぜならば、江戸時代に入ってからの僧侶の多くは、寺院の運営や葬礼によって、多額の利益を得る僧侶が多かったからである。その為、大した修行もせず堕落した僧が多かったことも影響していることは確かである。



明治政府は、他にも法を打ち出している。
明治4年(1871年)には、『神社を国家の祭祀とする』政策をだしている。

これによって、更に国家神道は勢力を拡大させるのだが、政府は神社にたいして布教活動を禁止している。『すべての祭祀は国家の為に行うもの』という考えからである。


こういった神道にたいする統制は、昭和20年の終戦まで続いていくのである。




今回はここまでw

2009年8月3日月曜日

知ってるようで知らない神道、その12

おはようございます、s.a.iです。

花火がドンドン、うちの犬はワンワン、夜はホント五月蝿い日々ですw

さて本題w
今日は、尊王攘夷と国学について書きます。

尊王攘夷とか神道と関係ないじゃんw
とか思う人は多いことでしょう。
ですが、江戸時代に入ってからの朱子学、国学の流れを見ると、次第にその様相が見えてきます。では、まず朱子学についてから書きます。

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系のことです。儒教は皆さんが知っている通り、孔子によって説かれた思想、信仰のことですが、朱子学は、この思想をいろいろとわかりにくくしたもの(というか僕は理解できなかった…)という感じです。

日本に伝わったのは、一般的には正治元年(1199年)に入宋した真言宗の僧、俊芿が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされてますが、異説も多く明確ではありません。鎌倉時代後期までには、五山を中心として学僧たちの基礎教養として広まり、正安元年(1299年)に来日した元の僧、一山一寧がもたらした注釈によって学理を完成したと言われています。
その後、時代を経て、江戸時代に入ると、林羅山によって「上下定分の理」やその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされています。

しかし、そんな朱子学に反発する形で国学というものが興ります。この国学は、中国の思想に影響を受ける前の日本古来のまっすぐな心を重んじるべきだとする考えの上に立つ学問です。和学・皇朝学・古学などの呼び方もあります。
国学とは、儒教思想などの、人間本来のもつ感情、精神を押し殺して理を重んじる思想を否定し、ありのままの感情の表現を評価する思想です。
多くの国学者は、中国の「論語」などの儒教古典ではなく、「日本書紀」「古事記」などの日本古典を研究していました。
十八世紀末に大成した本居宣長は、次の様な主張をしています。
「儒教は『忠』や『孝』などの形式的な道徳観念で人の心を縛るが、我々(日本人)は生まれながらに持っているまっすぐな心の命じるままに生きるべきだ」
そして彼は、仏教、道教、儒教などが織り交ぜられた神道ではなく、古代からのありのままの神道こそ、日本人が重んじるべき神道であると説いています。

この儒教を排除して、本来の神道を…という思想を更に確立したのが、平田篤胤であり、『復古神道』と呼ばれています。後に彼は、『日本本源論(日本は万国のあらゆる事において最も優れた国であるという主張論)』と『皇国尊厳論(天皇を最高の存在とする論)』を出します。
これによって、前者は『攘夷論』、後者は『尊王論』へと発展するのです。

この理論が遂には江戸幕府を倒し、明治維新へと導く『尊王攘夷派』を多く輩出した事は事実であり、近代日本の礎になった事は言うまでもない。ただ、外国文化、思想の全てを排除しようとする思想は極論すぎたわけで、明治維新後の明治政府はもっと外国文化を公平に評価する事で上手に付き合ってきたといえます。