2009年11月22日日曜日

好きな戦国武将BEST3

こんばんは、s.a.iです。

ちょっと間が空きました><
ごみんなさいですw

さてさて、今日から遂にBEST3突入です。
僕基準のランキングw
一体どんな武将が出てくるんでしょうか?
さて、では行ってみようかw


北条綱成
1515~1587
左衛門大夫、上総介を称する。父親は今川家家臣、福島正成。

綱成6歳の時、1521年の時に、父福島正成は飯田河原の戦いにて武田側に討たれる。(1536年の今川家内紛の花倉の乱の時に戦死したともされている)
その際に、今川領から北条領へと落ち延びている。

流浪の身であった綱成を、時の北条家当主、北条氏綱が保護し、綱成を大変気に入った氏綱は後に娘を娶らせ、福島性から北条性へと名を変えさせて、北条一門に名を連ねさせる。
綱成の名前も、氏綱の『綱』と、父・正成の『成』を取ってつけたものと言われ、氏綱が綱成を大変に気に入っていた事がよく解る。

当時の氏綱には子に男子が少なかった。その為、次期当主である長男氏康と同い年でもある綱成が補佐してくれるなら、これほど心強い事はなかったのであろう。それほどに綱成は優秀でもあった。

綱成の代名詞としてよく使われるが『地黄八幡』の旗印。綱成は北条家『五つ備え』の一つ、地黄を任されていた。また、相模を治めていた北条家は八幡宮を信仰していたので、『地黄八幡』を旗印とした。綱成は各地の戦で活躍し、武功を立てた。特に川越夜戦において、北条家が勝利する事が出来たのも、綱成が江戸城、川越城を占拠し、占拠した川越城に半年もの籠城戦を戦い耐えた事にある。扇谷上杉家と山内上杉家、足利家が連合して約8万の兵力で攻めた川越城をわずか3000で守り抜いた。北条家本隊約8000が到着した後、(当時の当主)北条氏康は扇谷上杉家へ偽の降伏状を送り、それを破棄して攻め込んできた扇谷上杉軍を打ち破る。上杉家当主・上杉朝定はこの時に戦死。
城内で様子を見ていた綱成は、今が好機と城を出て、山内上杉、足利軍へ進軍。朝定の戦死を叫び、勝利の鬨を挙げながら戦場を駆け巡り多くの武功をあげたといわれている。
この戦にて、上杉側の戦死者は15000とも16000とも言われ、日本の戦争の歴史上で、桶狭間と並ぶ戦力差をひっくり返した戦として有名である。

この戦の後も、里見家との国府台会戦など、大いに活躍し、北条家の戦の先陣を飾るのです。

いやぁ、遂に有名な武将が出てきましたねw
(今までの武将もかなり有名ですがwww)
綱成はただ強いってだけじゃなく、元が今川家家臣であったのに敵方であった北条家に救われた時の恩義に報いる為、忠誠をつくす処も魅力です。やはり強い、頭がいい、それだけじゃ立派な男とは言えないですよねw男気ってものがなくちゃって思います。
今回はここまで。
ではまたw

2009年11月16日月曜日

好きな戦国武将BEST4

こんばんは、s.a.iです。


いろいろと事情があって少し間があきましたw
さて、早速ですが、第4位、行ってみようか


花房職秀
1549~1616
改名後は花房職之、正幸の従弟、職勝の子。別名は花房助兵衛。

備前国、宇喜多家の家臣。
1567年、足軽大将として参戦後、各地で転戦する。2年後の1569年には、備中国をめぐって毛利家と争い、その際に毛利元就の四男・毛利元清(一時期の穂井田元清)との戦争にて多くの武功を挙げる。その後は、赤松氏、浦上氏とも交戦している。
1570年台に入り、宇喜多氏が織田家に降ると、羽柴家と懇意になる。
秀吉の時代が到来すると、これに従い、小田原攻めにも参戦している。

石垣山城での一説は有名で、能や演芸など風流に溺れて、一向に攻城戦を仕掛けない秀吉に対して愚直にも諫言したことがある。石垣山の城門付近で秀吉と出会った際に、下馬するよう咎められたところ、「腰抜けの大将に下馬する必要はない」と物怖じせずに言い放ったので切り捨てられそうになる。そこを宇喜多秀家に取りなしてもらい、逆に秀吉に気に入られて加増されている。

この時期に流行った事の一つに『かぶき者』というのがあります。
一番有名な人が、皆知っている『前田慶次郎利益』でしょう。ですが、利益にも負けない程の勇敢さと、豪胆さを兼ね備えていたのが職秀だと思います。
なんてったって、天下人に向かって、上から物を言うなんて事を平気でするのですから。

後に、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、先鋒を務め、大阪の陣でも活躍するなど、老骨に鞭打ってでも、前線で戦おうとする当たり、真にかぶき者だったのでしょう・・・。関ヶ原の戦いの後、8000石の所領を得て、後々までその領地を伝えたそうです。


職秀は、その愚直なまでの真っ直ぐさが魅力です。また、旧主である秀家が流刑になった後も、毎年数十石仕送りしていたという義理堅い処も男気があると思います。曲がった事が大嫌いな処など、今の政〇家などに見習ってほしい処ですwま、人の事を言える立場ではありませんがwww

今回はここまで
ではまた。

2009年11月12日木曜日

好きな戦国武将BEST5

こんばんは、s.a.iです。
さて半分過ぎました。
ここからは上位半分になります。
さて知ってる武将は出てくるのでしょうか?
間違いなく、信長、秀吉、家康は出てこないですが、有名武将は出てくるのでしょうか?
とっても気になります。
と思ってるのは僕だけかw

さて行こうかw

三好政康
1582~1615
三好政長の子、三好三人衆の一人。出家後は三好入道清海と名乗る。

政康21歳の時に父政長を、三好一族惣領である長慶に討たれる。その後、細川晴元の家臣として、長慶とも戦った事があるが、長慶の和解策に応じて臣従する。その後は優秀な軍事指揮官として活躍する。
長慶の死後、他の三人衆や松永久秀と共に将軍義輝を殺害。三好家を畿内最大勢力へと押し上げる。だが、信長の台頭後、戦に敗れて三好家が潰えると、その姿をかくしてしまう。数年間政康の動きは記録に残っていない。だが、数年後秀吉の家臣として歴史に再登場する。
秀吉の死後、多くの武将が秀吉から家康へと鞍替えしている中、最後まで秀頼に仕え、大阪の陣(冬・夏)にも参加している。
最後は大阪の陣にて戦死したと記録されている。

この人物、名前からも推察された人も多いと思うが、真田十勇士の一人、三好清海入道のモデルになった人物である。勇猛であり、軍指揮能力も高い。さらに衰退する主君に最後まで尽くす姿が講談に適していたのでしょう。

あまり記録が多くない人物ですが、なぜか魅かれます。
なんでだろうな~w
ま、そんなわけで第5位でした。

2009年11月11日水曜日

好きな戦国武将BEST6

おはようございます、s.a.iです

このシリーズも4回目。
今日はBEST6を書いていきます。
毎度のことながら、完全っっっっっな主観ですwww
私はこっちのがいい~とか俺はこいつ嫌いだ!とか、
めっさ思ってくれていいですww
あくまで主観ですからww

さて、いこうかw

小島貞興
1522~1582
雲井田新兵衛、通称・小島弥太郎、上杉家家臣。

屈強な兵士が数多く存在していた長尾家(上杉家)のなかでもひと際目立った豪勇の士である。謙信が幼少だった頃、謙信の父、為景に仕え、馬乗り衆となる。各地を転戦して数多くの武功を挙げていたが、金津、戸倉、秋山、黒金ら諸氏と共に幼少の謙信を護衛するよう命じられていたという。

彼の逸話は数多くあり、中でも謙信が上洛した際に足利義輝が飼っていた大猿を震え上がらせたり、武田信玄の飼い犬『人食い獅子』を片手で捻りつぶしたり、戦の途中、川の氾濫で渡る事の出来なかった謙信を、板の上に馬ごと乗せて担ぎ渡ったなど、およそ人と思えないくらいの豪勇さが語り継がれている。
話半分であることは間違いないであろうが、少なくともそれに見合うだけの豪力を持っていた事は確かでしょう。その勇猛果敢な様から『鬼小島』との異名をとる程である。

川中島の合戦において、『山県昌景』と一騎打ちをした際、武田信玄の子、武田太郎義信が危機に瀕している事を知った山県に、『主君が危機に瀕している為、この勝負を預けたい』との申し入れに対して快く承知し、早く駆けつけるがいいと言って見逃したことから、『実も花もある勇士』と称賛されている。

うちの近くにも、昔の力自慢の話が残っていますが、昔の人はホント力持ちですよねw
大きな石を軽々と持ち上げたり、米俵を3つヨユーとか・・・w
今の時代に来たら、間違いなくオリンピック金メダル級なんでしょうねwww

って訳で、現存する資料が少ない人物ではあるが、最強軍団と言われる上杉軍のなかでも頭一つ抜き出た存在として、いつもかっこよく感じる人物ですw

2009年11月8日日曜日

好きな武将BEST7

こんばんは、s.a.iです。

なんだかんだで第4回w
今日は第7位を書いていきます。
なんていうか、うん、おいらってホント主要大名に魅力感じねーんだなーwww

じゃ、行こうじゃマイカ!

山中幸盛
1545~1578
山中満幸の子、鹿介(しかのすけ)。
山中家の家系は、宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。尼子氏の庶流にあたり、山中幸久を初代とする。
鹿介は幼い頃から尼子家に仕えていたが、家督を継いだ兄が病弱だった為、家督を譲られて当主となる。その際に代々伝わる三日月の前立と鹿の角が飾られた兜も譲られている。
家督を譲られた後も、献身的に尼子家に仕え、16歳の時には、その勇猛さを現わすように、一騎打ちにて首級を挙げるなど、目覚ましい活躍を見せる。
その後も毛利家との争いの中、数多くの首級を挙げ、山陰で知らぬ者が居ないほどの武将となる。
だが、主家たる尼子家が滅亡すると、その再興を願い執拗なまでに奮闘するのである。
三日月に向かい、『願わくば、我に七難八苦を与えたまえ』という言葉は特に有名。多くの講談に描かれている。
幸盛の尼子家再興記は3度に渡る。
第1次再興記は1568~1571。
京都で僧席だった尼子国久の孫、尼子勝久を還俗させ、擁立。山陰の豪族を味方につけて出雲一国を取り返す程に回復させるが、失敗。主君勝久と共に京都に逃れている。
第2次再興記は1572~1576。
京都へ逃れた幸盛は、勝久と共に織田信長を頼る。信長の山陰方面攻略軍の先鋒として奮闘する事を誓い、一時は因幡を占領し再興を成し遂げる。だが、信長が本願寺との戦闘に入ると一転して、因幡を毛利に奪われ、またも失敗。
第3次再興記は1577~1578。
幸盛は勝久と共に信長に従い、松永久秀が立て篭もった信貴山城攻略戦に参加。その後は秀吉の山陽攻略軍に参加し播磨に進軍。上月城へと入って尼子家再興を果たす。しかし運命は尼子家再興を許さなかった。織田家の本願寺、上杉との戦闘が更に激化したこともあり、織田家は一時的に播磨より撤退。その際に毛利によって上月城は攻められてしまい、勝久は自害。ここに尼子家は潰えたのである。幸盛は自害せずに毛利に降り、飽くまで生き残り尼子家を再興しようとしたそうだが、吉川元春により、生き残しても災いにしかならないと判断され、殺害される。
こうして尼子家再興運動は終わりを迎えるのです。

こうした幸盛の生き様を見習おうという動きが後に教科書にも載るほどになってくる。江戸時代に入ってからは武士道の習いとして、明治時代に入ってからも、国民教育の一つとして、道徳の一つとして『七難八苦』のくだりを用いている。
再興は成し得なかったとしても、こうして後世にまで残る事をした幸盛は、『お家を残すよりも、その精神を残す』という日本人の心意気を示してくれたと思います。
そんな山中幸盛を、僕は尊敬している。

2009年11月7日土曜日

好きな戦国武将BEST8

こんにちは、s.a.iですw

さてシリーズも3回目w
マイナーな武将ばっかが好きなわけじゃないとここで言い訳しておこう!
って訳で、サクサク行ってみようかw
第8位ですw


足利義輝
1536~1564
左馬頭、左近衛中将、足利幕府第13代将軍

足利義輝は、第12代将軍足利義晴の長男として生まれたが、生誕場所は室町御所ではなく、近江だったと記録されている。父義晴は、細川家の内紛に翻弄され、畿内諸国を放浪する身であったという。1546年、畿内の紛争に嫌気が差した義晴は、幼かった義輝に将軍職をさっさと譲ってしまう。しかし、就任直後に、畿内最大勢力の三好長慶に京を追われ、父と共に近江へと逃げるのである。
父義晴は、この近江の地にて病没してしまい、室町御所へと戻ることは敵わなかったという。

義輝にとって、畿内の紛争の度に室町御所を追われることは屈辱以外の何物でもなかった事でしょう。その為、御所への凱旋、幕府権威の復権を強く誓ったという。
畿内へと戻った義輝は、三好長慶、細川晴元、六角義賢らが争っていた事を利用し、各勢力を味方にしてうまく京を奪還していた。
しかし、畿内にまとまった直轄地を持たなかった将軍家にとって他大名の力を借りた政権は長く持たなかった。武家にとって、その力を示すものは、やはり武力(軍隊)である。直接的に動かすことのできる軍隊を持たなかった為、将軍家としての権威を回復するには至らなかったのである。
この状況は室町幕府設立当時から危惧されていた事であった。というのも、足利幕府設立時の初代将軍足利尊氏が所有していた所領は関東である。それなのに幕府を京においた時点で室町幕府はぜい弱なものでしかなかったのである。しかも、その関東の所領でさえ、関東動乱の最中、将軍家の手を離れてしまい、事実上将軍家の領地はなくなってしまう。足利幕府絶頂期だった義満の頃でさえ、諸国の大名の力を借りた政権だったのである。

そんな中でも、義輝は気丈に、そして武家の棟梁あらんと剣術を学ぶ。故に『剣聖将軍』などと呼ばれることもあったという。師匠は、塚原卜伝。流派は新当流。兄弟弟子には、諸岡一羽や真壁氏幹、斎藤伝鬼坊などの剣豪もいる他、北畠具教、細川幽斎、今川氏真、上泉信綱などの武将もいる。
個人技だけで言えば、天下無双の将軍であったといえよう。ですが、軍隊を持たなかった為に、最後は松永久秀や三好三人衆によって殺害されてしまい、足利幕府は、第14代将軍足利義栄を経て、最後の将軍、弟・足利義昭へと継がれていくのである・・・。

滅びゆく幕府であったとはいえ、その権威の回復に生涯を費やした義輝。復興の為ならと偏諱(自分の名前の一字を与える事)を惜しみなく使うなど、目的の為ならばどんな手段でも使うという心意気がとても好きです。目的がブレてないトップ。どんな事をしてでも成し遂げようとする精神力に尊敬の念を抱きます。

ってことで今回はここまでw
ではまたw

2009年11月5日木曜日

好きな戦国武将BEST9

こんばんは、s.a.iです。


さてさて、シリーズ2回目ですw
今日はBEST9です。
それでは行ってみよう!


ちなみに、何度も言うようですが、僕基準なので、『そんなアフォなwww』とか言わないようにw
ではGO!


里見義堯
1507~1574
刑部少輔、里見義通の弟・里見実堯(安房滝田城主)の子


当時の安房を治めていた里見家当主は里見義豊であった。その配下であった里見実堯は家臣でありながらも、その勢力を拡大させていた。その勢力拡大を恐れた義豊は、これを謀殺。
実堯の後を義堯が継ぐことになる。
翌年、相模の実力者・北条氏綱の力を借りて、義堯は義豊を攻め滅ぼす。もちろん大義名分がなければ誰も義堯には付いてこない事は解っていたので、義堯は、『父(実堯)は伯父(兄・義道)の命に従い義豊殿を支援、その下で里見家の版図拡大を手伝っていたにも関わらず、これを謀殺するとは、恩を仇で返したようなものだ』という筋書きを立て、主家滅亡を正当化。最終的に安房里見家の実権を全て掌中に収めたのであった。
その後、上総、下総にまで勢力を拡大させるなど、里見家最大の版図を築くに至る中興の祖である。
しかし義堯のすごい処はそれだけではなく、主家転覆の際に手を借りた北条家とはその後縁を切り勢力拡大戦を仕掛けるなど、意外とアグレッシブな大名であること。また、1566年には上総三船山の戦いにおいて、北条氏康の軍を打ち破っていることなど、なかなかに勇猛果敢な大名であることである。


義堯の軍が得意とした戦法は水軍を用いた戦法である。海上よりの攻撃で敵軍が弱るまでとことん攻撃し、弱体化した後に上陸、陸上を進軍する軍隊と合流し撃退するというものである。この戦い方で、上総、下総はもちろん、伊豆、相模にまで攻撃を加えるのだから、かなり攻撃的な軍といえよう。
この事を、里見家と交流のあった安房妙本寺の住職・日我は『義堯こそは関東無双の大将である』とまで称賛している。


関東において、北条家といえば誰もが知るほどの有名大名です。ですが、この北条家ですら里見義堯には苦戦を強いられていたというのだから、まさに『関東無双』も伊達じゃないんでしょうw

ってことで、今回はここまで
ではまたw

2009年11月4日水曜日

好きな戦国武将BEST10

おはようございます、s.a.iです。


好きな戦国武将を書いてみよう!
ってことで、今回はBEST10の第10位を書いてみるw


と言っても、僕基準なので、『ありえねー!』とか言わないようにwww
では行こうか、第10位


『村上義清』
1503~1573
左衛門尉、周防守、北信濃の有力大名。北信濃における清和源氏の名門。


昔から信濃は守護大名の力が各地まで及ばない事で有名だった。特に北信濃では、守護大名『小笠原氏』よりも村上氏の力は上で義清の代になると格段に勢力を拡大していった。当時はまだ甲斐一国を切り盛りしつつ、信濃にちょっかいを出していただけだった武田信虎とも手を組み小笠原家の力をどんどんとそぎ取っていき、北信濃全域を支配するまでに至る。
しかし、手を組んでいた武田信虎が、息子『晴信』に追い出されると武田家との関係は激変。一転最悪な雰囲気になってしまう。
最終的に激突するきっかけになったのが、武田家が諏訪家を討ち滅ぼし信濃進出を決定的にした事。信濃の大名、豪族は武田に付くか、反武田に付くかで割れます。そして反武田の盟主となったのが義清でした。それにより、義清は晴信と2度に渡り激突することになります。
後世に武田晴信(武田信玄)は稀代の軍略家として有名ですが、その晴信を2度の戦い共打ち破ってます。戦闘において、晴信をも凌ぐ才能と勇猛さを持ち合わせていたのが義清であると思います。
ですが、北信濃にいた豪族『真田氏』の裏切り、調略が全てを狂わせます。対武田拠点の一つを真田氏によって奪われ、武田方に付いてしまうと義清の力をもってしても押し寄せる波には敵わなかったのでした。
わずか数年で北信濃は武田家に奪われ、義清自身も越後の長尾家へ身を寄せる事になるのでした。


まぁ、これがきっかけで『川中島の合戦』へと時は動くのですが、それは別のお話。


ですが、武田信玄を退ける程に戦闘に長けた人物であった事は確か。もっと評価されるべき人物だと思っています。なので好感が持てる武将なのでしたw



余談
ここで、もうひとつBESTをw
なんとなく気に入ってる坊主BEST10w

10位 北条幻庵
9位 織田長益(有楽斎)
8位甲斐宗運
7位安国寺恵瓊
6位太原雪斎
5位下間頼廉
4位快川紹喜
3位虎哉宗乙
2位南光坊天海
1位板部岡江雪斎

うん、名だたる名坊主を抑えて板部岡江雪斎が第1位ですwww
なんでかって?
そりゃ名前が気に入ったからさー!w
ってことで、意味のないランキングでしたw
ではまたw

2009年11月3日火曜日

歴女は聞くけど、歴男は聞かない

こんばんは、s.a.iです。

某先生のBlogでは、ただ今水戸(茨城県)に関するおはなしが絶賛公開中です!

とまぁ、いきなり広告から始まりましたがwww
最近、いろんなところで耳にするのが『歴女』という単語。
歴史に興味があり、特に戦国武将に強い思い入れを持つ知識あふれる女性の事をいうそうですが、実際は某ゲームや某アニメ、マンガなどに出てくる美形戦国武将(これ重要w)に憧れをもっちゃった人の事を言うそうですw
なので現実の武将の姿などには興味がなく、ただ美形であればなんでもいいとしか僕には思えなかったりします。

・・・まぁ、偏見ですがw

とまぁ、そんな話はいいとして、先生のところで書いてみると言っちゃった以上書かないと怒られそうなので書いてみようと思うのが、これ

『私の好きな戦国武将BEST』

とりあえず10人選んでBEST10→BEST1へと書いていこうかと思う。
うん、久々に連載再開だw
こうでもしないとホント書かないな、おいらwww

って事で、またまたくだらない企画ですが、しばしお付き合いくださいませw
ではまたw