こんばんは、s.a.iです。
いろいろと事情があって少し間があきましたw
さて、早速ですが、第4位、行ってみようか
花房職秀
1549~1616
改名後は花房職之、正幸の従弟、職勝の子。別名は花房助兵衛。
備前国、宇喜多家の家臣。
1567年、足軽大将として参戦後、各地で転戦する。2年後の1569年には、備中国をめぐって毛利家と争い、その際に毛利元就の四男・毛利元清(一時期の穂井田元清)との戦争にて多くの武功を挙げる。その後は、赤松氏、浦上氏とも交戦している。
1570年台に入り、宇喜多氏が織田家に降ると、羽柴家と懇意になる。
秀吉の時代が到来すると、これに従い、小田原攻めにも参戦している。
石垣山城での一説は有名で、能や演芸など風流に溺れて、一向に攻城戦を仕掛けない秀吉に対して愚直にも諫言したことがある。石垣山の城門付近で秀吉と出会った際に、下馬するよう咎められたところ、「腰抜けの大将に下馬する必要はない」と物怖じせずに言い放ったので切り捨てられそうになる。そこを宇喜多秀家に取りなしてもらい、逆に秀吉に気に入られて加増されている。
この時期に流行った事の一つに『かぶき者』というのがあります。
一番有名な人が、皆知っている『前田慶次郎利益』でしょう。ですが、利益にも負けない程の勇敢さと、豪胆さを兼ね備えていたのが職秀だと思います。
なんてったって、天下人に向かって、上から物を言うなんて事を平気でするのですから。
後に、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、先鋒を務め、大阪の陣でも活躍するなど、老骨に鞭打ってでも、前線で戦おうとする当たり、真にかぶき者だったのでしょう・・・。関ヶ原の戦いの後、8000石の所領を得て、後々までその領地を伝えたそうです。
職秀は、その愚直なまでの真っ直ぐさが魅力です。また、旧主である秀家が流刑になった後も、毎年数十石仕送りしていたという義理堅い処も男気があると思います。曲がった事が大嫌いな処など、今の政〇家などに見習ってほしい処ですwま、人の事を言える立場ではありませんがwww
今回はここまで
ではまた。
フンダルとまみれと大殿と
9 年前
誰にも優しく愛に生きる人ですねwww
返信削除全く逆のイメージなんだけどなぁw
小田原攻め以降、家康にコロってついちゃうし、
秀家への差し入れも中途半端で、
かえって贅沢癖つけさせちゃうしw
それより彼の最大の見せ場は
碁に負けた腹いせに
相手を碁盤ごと殴り殺したとこでしょうがwww
先生>
返信削除ああぁぁぁぁぁぁぁぁ!
言っちゃったwww
言っちゃダメ、ゼッタイw