2009年7月30日木曜日

知ってるようで知らない神道、その11.2

こんにちわ、s.a.iです

いやぁ、連続で書いてますw
第11回の補足その2いってみようか!w

今回の補足は『福の神』についてです。
福の神といえば、出てくるのは『七福神』ですね。
七福神とはどんな神様でしょう?それを説明していきます。

七福神とは、『恵比寿』『大黒天』『毘沙門天』『弁才(財)天』『福禄寿』『寿老人』『布袋』の七人の神様を指します。
では、各神様ごとに説明します
『恵比寿』:
日本古来の唯一(その他はインド、中国の神)の福の神です。由来をたどると非常に複雑な経緯を持っています。「えびす」を称する神は複数あって、イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命の子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされることが多いです。そのため、同じ恵比寿を祀る神社でも、場所によって神は異なっています。また、少数派ですが、恵比寿を少彦名神や彦火火出見尊とすることもあります。地方によっていろいろと違うようです。元は古代日本において、海に漂流してきた異物を皆『えびす』と呼び福をもたらすものと言われてきたものが、変化したものです。時代が変わるにつれて、大きな魚、クジラなどを表すこともしばしばあった。その為、恵比寿を描いた絵には大海からの福を表すものが多く描かれるようになったと言われます。

『大黒天』:大黒天とは、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラのことです。これが、中国へ伝わり、戦闘神、豊穣神という信仰のうちの豊穣の部分が強く日本に伝わり、習合されたといいます。大黒天の『だいこく』が大国に通じる事から、古くから大国主命と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面だけが残り、七福神の一柱の大黒天として食物・財福を司る神となった。室町時代以降は『大国主命』の地方信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像となってます。
袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためである。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、鼠が大黒天の使いであるとされています。
伊豆山神社(伊豆山権現)では、夫が大国主大神で妻が神須勢理毘売命(すせりひめのみこと)である夫婦大黒天像なんてものもあります。

『毘沙門天』:インド神話の財宝神クベーラを前身とし、『よく聞く所の者』という意味にも解釈できるため、多聞天(たもんてん)とも訳されています。日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例です。かの上杉謙信が深く信仰したということからも、毘沙門天が戦闘の神であるとされています。


『弁才(財)天』:弁才天は、仏教の守護神である天部の1つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。『弁才天』と漢字表記するのが正しいが、日本では『才』が『財』の音に通じることから財宝神としての性格が付与され、『弁財天』と表記する場合も多い。弁天とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂、弁天社などと称されることが多い。

『福禄寿』:道教で強く希求される3種の願い、すなわち幸福、封禄、長寿の三徳を具現化したものである。宋の道士天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、寿老人と同体、異名の神とされることもあり、どちらかが七福神から外されていることもあった。 ただし、福禄寿は、幸福を司ることが多く、そういった意味で寿老人とは別であるといいます。福禄人(ふくろくじん)とも言われる。

『寿老人』:寿老人(じゅろうじん)は道教の神仙。中国の伝説上の人物。南極老人星(カノープス)の化身でもある。たまに『福禄寿』と同一視され、七福神から外されることもあった。意外と影の薄い神様ですが、不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである鹿を従えていて、手には長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている事から、長寿を司っているといいます。

『布袋』:唐の末期の明州に実在したといわれる仏教の僧です。

うぅむ…だんだんと書く気力がなくなったのがよくわかるなwww
まぁこんな感じで七福神は広く江戸の民衆に信仰されていったわけです。
ってことで、今日はこれくらいでw

知ってるようで知らない神道、その11.1

おはようございます、s.a.iです。

第11回で大分駆け足感が残ったなぁ…って思うので、補足書き足しです。
補足1として今回は『修験者』について書きます。

修験者とは、どんな人達でしょう…?
世間一般的には『山伏』といわれる人達です。修験者とは、修験道の実践者であり、修験道とは、山に籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とする日本古来の山岳信仰と仏教とが習合した日本独特の信仰です。

修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとする、古神道の一つである神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)という山岳信仰と仏教が習合し、そこに道教、陰陽道などの良いところも加味されて確立した日本独特の信仰です。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって超自然的な能力「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な信仰です。この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ様になったといいます。 その起源は奈良時代で、開祖は役小角(役行者)といわれていますが、あくまでも役小角は伝説的な人物なので史実は不詳です。
平安時代に入ってから、この信仰は盛んになってます。平安初期に伝来した密教との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。密教との関係が強かったことから、独立した信仰ではなく仏教の一派と分類されることもあります。
江戸時代に入ると、幕府は慶長十八年(1613)に修験道法度を定めています。真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないという法度です。これにより、修験者は自由な信仰とは言えないものになったと言えます。
大政奉還後、明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止されました。また廃仏毀釈により関係する物などが破壊されています。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもあり、御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られます。

このように、修験道は山岳信仰を元にして、多くの信仰を取り入れてきた過程があります。これは、神道に通じるものがあり、古くから伝わってきた柔軟な思考が伝わったものと思われます。

追記
鎌倉時代~江戸時代までの山伏には、修験の他に役割を持つものがいました。それは『忍』と呼ばれる存在です。各地を歩き回り情報交換をする山伏は忍として、優秀だったことでしょう。または、忍が山伏の姿で各地の情報収集をしていたとも言いますが…wま、これは後々書きますかw

2009年7月29日水曜日

知ってるようで知らない神道、その11

おはようございます、s.a.iです

そんじゃ第11回行ってみましょうかw
今回は江戸時代にないってからの神道について話します。

江戸時代に入ってからの神道は、古代~平安にかけての神道とは大分異なります。それまでの神道では、集落の中に神社は中心に置かれた。
しかし、それ以降武士が世の中を治めるようになると、集落の中心は武家屋敷となり、神社は商工民の中心となった。その理由として神社にてお参りする人達は商業や工業に関わる人達が多くなり、同じ業種の人達が集まって門前町の様に町が出来上がった為です。他にも武家がお参りした八幡神社も多く建立されましたが、武家町の他に建てられました。こうして出来上がった街を支配する為に、武家は神社に対して領地を認めます。これが『社領』です。神社はこうして大きくその姿を変えていきます。商工をまとめる領地を持つことになった神社は取引に税金をかけます。その税金を武家へ納付することで更に商工をまとめることを認めさせます。室町~安土桃山まではこうした取引が成立していました。しかし、織田家の台頭により楽市楽座が敷かれ、神社は元の信仰を取り戻すのです。(神道における腐敗時代といえます)
こうした経緯もあり、江戸時代に入ると政治とは切り離された存在となります。(むしろ政治に密接だったのが仏教だということですが)ただし朝廷は違いました。元々皇室を奉る様に造られてきた信仰です。朝廷だけは神道との結びつきが強く残りました。

江戸時代へ入る頃の神道を語る中で欠かせないのが、修験者の存在です。所謂『山伏』という存在です。これは古くは平安後期より存在した人たちですが、今でも地方に伝わる修験道に関する事の多くは明らかになってません。それくらい密かに伝えられてきたものであるといいます。平安後期吉野地方に発展した林業、そこから修行する人達が集まってきた為開かれた熊野大社などはいい例です。そして山伏となって各地を修行と称して歩き回った人達の役割で重要な事が、農民達の治療です。集落の農民にとって山伏は外部の情報を持ってきてくれる情報源であり、病治しの呪法を施してくれたり、読み書きを教えてくれる先生でもあったといいます。
江戸時代に入ると、幕府はこうした山伏に対して定住を求めます。そして出来たのが『里修験』という人達です。彼らによって人里に多く神社が建てられたといいます。ただ熊野大社を始めとする各地行脚の修験者は数を少なくしていきます。理由として交通整備がされるようになったことと、山伏がもたらす情報は貴重ではなくなってきたためと考えられてます。

このように、中世~江戸にはいると信仰対象に流行がありました。武家が祀った八幡神、朝廷が信仰する天照大神、修験者の多かった熊野三社など、その時々によって必要とされたものが違うため、神々にも流行があったのです。江戸時代に入ってからも流行はありました。それは商業を司る神様です。所謂『福の神』の誕生です。大黒様や稲荷様などはこのころから広く信仰されてます。自分達に利益がありますようにという事を願い信仰されたのです。

また江戸幕府が厚遇したのが『吉田神道』といわれるものです。これは室町後期に京都の吉田神社(春日大社から分かれた神社)に仕えた吉田兼倶が興した宗派で仏教を神道の下に置くというものです。吉田家は、自家の神道は、天照大神のもとで祭りを司った天児屋根命(あめのこやねのみこと)から伝えられた由緒正しいものであると主張した。
この吉田神道は次第に大名や朝廷に広まった事で全国の神社の指導者的存在になっていきます。その為、幕府も見過ごせない存在となり厚遇することになっていくのです。
ただ、江戸幕府は、寺社に対し政治への介入を禁止しています。(とはいえ高僧が幕府を支えたのも事実ですが…)その為、武家を支える学問的存在へと、その姿を変えていくのです。

では、次回は幕末までの話を書いていきます。

2009年7月28日火曜日

知ってるようで知らない神道、その10.5

おはようございます、s.a.iです。

後半戦スタートする前にここでおさらい。
ここまでで神道について、本来の、古代からの神道は説明してきました。
全部読み返すのは大変だろうから、ここで簡単にまとめます。

1,神道は古代日本人が生活する上で身に付けた信仰であるということ。
2,他の欧米各国の宗教とは別物であるということ。
 2.1一神教ではなく、多神教であること
 2,2戒律を求めず自身の心に問いただすこと
 2,3異教を認めない頑なな処がなく、多く取り入れて時代ごとに変化していく柔軟さがあること
3,性善説を説いた信仰で罪を犯しても(穢れを纏っても)禊ぎをすることで元に戻れると信じられていたこと
4,天皇が全国を統治する為に、神話を書きあげ、神々の系譜を確立したこと
5,系譜が確立される課程において、地方豪族が信仰する大国主命は中央が信仰する神々の元に置かれた事で上下関係をしっかりさせたこと
6,飛鳥時代には仏教、奈良時代には道教、平安時代には密教と時代ごとに他教を取り込んできたこと

こういった経緯があって現在の神道は成立してます。
とはいえ、幕末~昭和にかけてまた違う形があるのですが、それはまた後ほど。


さて、めっさ簡単にまとめましたが、今後の内容についても書き加えていきます。
第11回 江戸時代に入ってからの神道
第12回 江戸時代後期、尊王攘夷と国学
第13回 明治維新~第2次世界大戦終戦までの神道
第14回 現代の神道その1
第15回 現代の神道その2
第16回 神社のしきたり
第17回 神前結婚式
第18回 神道における先祖供養とお墓
第19回 靖国神社とその役割
第20回 番外編:狛犬ってかわいい

こんな感じで書いていきます。
うん、こうすれば自分でもちゃんと書くはずwww

ってことで次回からもよろしく
(話がまとめられなかったから、新章書くのをあきらめたわけじゃないんだぉ!)

2009年7月27日月曜日

知ってるようで知らない神道、その10

こんにちわ、s.a.iです

段々と書く内容を頭の中でまとめるのが大変になってきたs.a.iさんですw

では、今日も書いていきますかね~w

今日はなに書こうかな~w
今日は武家の護神としても有名な八幡神について話しましょうかねw

八幡神は主に中世(平安後期~江戸初期にかけて)信仰されてきた神で、応神天皇を祀ったものである。後三年の役(1083~1087年)という東北地方での戦いに勝利して清和源氏を大きく発展させた源義家が、石清水八幡宮の社前で元服して『八幡太郎』と名乗ったという経緯がある。このことにあやかって八幡神は武士の棟梁である源氏の守り神とされたのが、武神として祀られるようになった経緯である。
今日、日本中の神社の社数は約12万社と言われている。その中で、八幡宮は1万4千社強といわれる。このことからも、数多くの武士達によって、必勝祈願されてきたことがわかる。

八幡信仰は元々は大分県宇佐市の宇佐八幡宮から信仰が始まった。宇佐八幡の神は元は海を守護する神だった。しかし6世紀半ばに宇佐八幡に仕える巫女が呪術的な医術を用いて信仰を集めたという。この時に使った術式は中国の道教を元にしているといわれる。
当時の大王が病気になった時は、宇佐から大和まで出向き、回復祈願をした事がたびたびあったようである。これによって王家が宇佐八幡宮を重用したことは容易に推察できる。
欽明32年(571年)宇佐神が大神比義(おおがのひぎ)という者に『我は応神天皇である』というお告げを告げたといいます。
また、奈良時代、東大寺建立の際に宇佐の巫女が朝廷に、八幡神が建立を見守りたいと告げたと言い、これによって東大寺のそばに手向山八幡宮が建てられた。
ついで、平安時代初めには、京都に近い男山に石清水八幡宮が作られたが、皇室はこれを祖神(おやがみ)及び京都の守護神とした。

八幡宮の神道は海神から始まり、道教を取り込み、奈良で仏教と融合し、後に東国の武家のさまざまな宗教的習俗が合わさって出来た複合信仰といえる。
なので、八幡信仰は、道教、仏教、東国民間信仰などが集合された独自の信仰なのです。

と、今回はここまでw

2009年7月23日木曜日

知ってるようで知らない神道、その9

おはようございます、s.a.iです。

前回の続きです。
古代日本人は、『穢れ』という概念を持っていました。それは『気枯れ(けかれ)』ともいい、気持ちが落ち込んだり、生きる力が失われたりと、大きな意味での生命力低下を意味していました。そして穢れた時、人は間違いを犯し、その度合いが酷くなれば罪を犯す。そういう考え方を持っていました。つまり悪い事をしてしまった、良心に恥じいる行いをしてしまった。そういう時、穢れたといい、穢れを清めることが大切なことであるとされ、穢れを清めるということを『祓い』または『穢祓い』といいました。

今でも悪い事をする人を『きたないやつ』といったり、悪いこと、卑怯なことを『きたないこと』と呼ぶことがある。これは、穢れたこと→清めるべきこと→汚れたこと→きたないことという繋がりがいまでも残った言葉だと言われています。つまり今でも大昔から繋がる神道の考えが浸透していることを意味しています。
というように、犯罪者として裁かれることがなくても、悪い事、卑怯な事を忌み嫌うという心を日本人はずっと持ち続けてきました。(時代劇風に言うと、恥を知れ!ってやつですね)これも、日本人が昔から、良心に恥じいる行為そのものを嫌う、またそういう事をする人を嫌うという清い精神の現れなのでしょう。

人が穢れたとき行うこと、それが『祓い』です。祓いは自分の心を清める行いのことです。例えば、人が罪を犯してしまった場合、水で身体を流したといいます。水は服の汚れや食器の汚れなど、多くの汚れを流してくれるという処から、身体に水をかければ、心も清められると考えられたようです。これが『禊祓(みそぎはらえ)』という行いで、心を清めることで、自分に二度と罪を犯さないという誓いを立てるのです。
これは、日本書紀にも書かれていることで、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国(死の国)に赴いたとき、死の穢れに触れてしまった。そのため、筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわぎはら)の河原にて身を清めたとあります。(宮城県のどこかの小さな川の河口とされてますが、架空の地名らしい)
神社の手水舎で手や口をすすぐことも、簡素化した禊祓であります。

昔から禊ぎをしたものは、社会に温かく受け入れられてきました。それは、罪を犯した事は穢れたせいであって、人そのものが悪いわけではないという考えからきているといいます。穢れさえ祓えば元の通りの清い人間になると信じられてきたのでしょう。それが今も残っているのが、『刑務所でしっかりと罪を償ったもの』を受け入れようということだと思います。ですが、最近は犯罪そのものが多くなっていることと、凶悪化が進んでいることにより、こういった神道の考えそのものが失われつつあります。罪には罰を。これは当然です。ですが、償い(禊ぎ)をした人を赦すという寛容の心も失われ、極刑ばかりを求めてしまいがちな今の社会は、人そのものよりも、もっと大きな社会そのものが『穢れた』存在となってきているのかもしれません。
神道のすべてを正としろとは言いませんが、大昔から考えられてきた事は決して間違っていたとは思いません。自分の行いを正すという気持ちを持つこと、穢れを祓った人を赦すという心、そういった事が出来る清い生き方が出来るように努めたいものです。

2009年7月21日火曜日

知ってるようで知らない神道、その8

こんにちわ、s.a.iです

ぃぇーぃ、いつものように書くペースが遅くなってきたじぇー!
(だめじゃんw)

さて前回の続きですが、今回は穢れと禊ぎの話です。
神道の概念の中に、穢れと禊ぎという概念があります。この二つの言葉の意味を理解して初めて神道を理解できるといわれます。
穢れとはなにか?『穢れ』とは『気枯れ(けがれ)』とも書きます。つまりは生命力が枯れている状態、もっと簡単に言えば、気力が無くなっている状態を指し示します。かなり前に説明しましたが、神道の考え方では『産霊(むすひ)』といわれる生命力に溢れた状態を最も尊い存在としています。その気が枯渇した状態こそが死に繋がる忌むべきこととされたのです。
古代日本人の女性は、死穢(しえ)、血穢(けつえ)(生理の時)は、穢れを周りにまき散らすことになるとして、自宅の中に引きこもったといわれています。それは、体内の血液が外に出る=生命力が外に逃げるとされた為です。また、身内から死者が出た場合も、穢れが外に出るとされた為、家の中に引きこもらなければなりませんでした。これを忌みごもりといいます。

更に、古代日本人は気の枯れた状態の時に間違いを犯すと考えました。その為、気の枯れた状態が進むと間違いが酷くなり周りへの迷惑へ繋がります。そうなると『罪』になります。
気の枯れた人物が犯す間違いが、罪になるかならないかは、周りの人が決めます。それは、謝れば済む程度なら罪にならず、『こいつのせいで被害を被った』というものは罪とされた。
つまり、山で一人暮らしている人は周りに迷惑はかけない為、森の動物を殺しても、それは穢れただけで罪にはならない。対して村に住む者が村の食料を荒らしたら周りに迷惑をかけているので罪となった。
神道の世界では好んで罪を犯す人はいないとされ(キリスト教でいう性善説ですね)、罪を犯すほど穢れた人は気の毒な人とされた。気の毒な人とは、気を枯らす毒を持つ人という意味で、かなりの病的な人を指し示しました。

では、穢れた場合はどうすればいいのでしょう…

今回はここまでにしようっとw
書きつかれたwww
ではまた

2009年7月15日水曜日

知ってるようで知らない神道、その7

こんにちわ、s.a.iです

早くも第7回。ちゃんと書いてるなぁ…おいらw

では、今日も書いていきますかw

では、前回の続きからです。創生神話の中で、日本を創生した神は『創生三柱の神々』といわれています。その子孫に『伊弉諾尊』(いざなぎのみこと)、『伊弉冉尊』(いざなみのみこと)がいて、彼らの子供が天照大神であるという処まで話しました。
天照大神の兄弟には、月読尊(つくよみのみこと)、素戔鳴尊(すさのおのみこと)がいます。彼ら兄弟神の父神である『伊弉諾尊』(いざなぎのみこと)は、彼らに天(太陽)、夜(月)、海原を守護するようにそれぞれの神に託します。しかし、素戔鳴尊は海の波音があまりに騒がしいとこの仕事を嫌がります。
この言い分に怒った伊弉諾尊は、素戔鳴尊を天上界から追放します。追放されたことを不服に思う素戔鳴尊は、天照大神がいる高天原に赴きますが、ここでも数々の乱暴を働いてしまいます。その為、心を痛めた天照大神は天の岩戸に籠ってしまい、地上は暗闇に支配された世界になったとされています。これが日蝕だといいます。素戔鳴尊は、これにより高天原も追放されてしまい、地上へと落とされるのです。西欧でいう処の堕天使みたいですね^^;
ですが、ここからが日本神話の独自性。素戔鳴尊は、地上に落とされたことで自分の行いを反省し、自分の穢れを祓う禊祓(みそぎはらえ)をします。これによって、穢れを祓った素戔鳴尊は善き神へと戻り出雲の国へとおもむきます。出雲の国では、その時八岐大蛇(ヤマタノオロチ)によって非常に困っていました。素戔鳴尊は、8つの酒樽を使いオロチを酔わせてぐったりした処で倒すという作戦でオロチを退治します。その時に生贄にされていた奇稲田姫(くしいなだひめ)と結ばれて、出雲の国を指導していったといいます。この二人の間に生まれた子供が大国主命であるとされました。

天津神と国津神の違いはここです。天照大神を始めとする高天原にいる神を天津神といい、一度穢れを受けて、禊祓いし再度神々の世界へと戻った素戔鳴尊を始めとする神々を国津神と分類し、国津神の子孫であるという地方神よりも中央の神の方が上であるとされたのです。

次回は、穢れと禊の話からしようと思います。
今回はここまでw

2009年7月13日月曜日

知ってるようで知らない神道、その6.1

こんばんは、s.a.iです

本編とは関係ありませんw
今期のアニメで神道が関わってくるなかなか面白いのがあるので
ここで紹介w
『化物語』というアニメですw

深夜枠なので僕は録画してから見てますが、なかなか面白いですよ^^
またメインテーマがあのryoさんが作曲しているんで、一度は見てください。
そして聞いてください^^

以上w

知ってるようで知らない神道、その6

おはようございます、週末が明けてまたまた書き始めてます。
s.a.iです。

前回の続きです。
神武天皇は、如何にして天照大神(あまてらすおおみかみ)の存在を世間に広めたのでしょうか?
という処からです。

古代日本では、集落毎に祭っている神様がいました。その神様のことを大国主命(おおくにぬしのみこと)といい、生前にその集落を支配していた指導者が死後に祖霊信仰によって祭られた神様です。この大国主命は各地においていろいろと呼び方が変わっています。それは、『古事記』や『日本書紀』にて確認されています。『古事記』によれば、大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)、葦原色許男神(あしはらのしこおのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)などと呼ばれ、『日本書紀』では、大物主命(おおものぬしのみこと)、国作大己貴命(くにつくりのおおあなむちのみこと)、葦原魂男(あしはらのしこお)等々という呼び方が確認されています。
この各地の神様を信仰対象とする集落を支配、統治するためには、より上位の神様の存在が必要不可欠だった。そのために生まれたのが天照大神であるといいます。そして、各地においてこのことを定着させるために生まれたのが、日本神話の数々です。日本神話は、南方(フィリピンやインドネシア、南太平洋諸島)の神話と共通している部分が多くみられます。各地の神話を取り込んで独自に発展した話を作り上げ広めたことで、庶民に天照大神の存在を定着させて、皇孫である神武天皇が支配する権利を有することを認めさせてきたわけです。
では、元々信仰対象であった大国主命はどうなったのでしょう…?
もちろん、神話の中に盛り込まれました。それは、どのような位置づけをされたのでしょう…?

『日本書紀』によれば、創生神話の時代、日ノ本を創生したのは、創生三柱の神(柱とは、神様を数える時の単位)であり、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)の三柱を表します。そのなかの国常立尊から七代を神世七代といい、その七代目に有名な『伊弉諾尊』(いざなぎのみこと)、『伊弉冉尊』(いざなみのみこと)がきます。この二柱の神は生殖を司る神であり、ここから多くの命が生まれたとされています。
その中の長兄が天照大神であり、多くの兄弟の頂点にたつとされたのです。兄弟の中に、月読尊(つくよみのみこと)、素戔鳴尊(すさのおのみこと)などが置かれました。そして、素戔鳴尊と奇稲田姫(くしいなだひめ)との間に生まれた神々の中に大国主命は置かれたのです。
こうして、各地の信仰よりも、中央の信仰する神は上位であるという系図ができるのです。
後に、天照大神を直系とする神々を『天津神』、大国主命などの各地にて信仰されてきた神々を『国津神』と大別するのですが、それはまだ先の話であり、そのように分類した理由はこれから書いていきます。

今回はこれまで。
それではまたw

2009年7月9日木曜日

知ってるようで知らない神道、その5

こんばんは、s.a.iです



早くも5回目w

珍しく続けて書いてるなぁ…おいらw



えっと、前回までのおさらいですが、日本には大昔から信仰の対象とされるものがあり、それを『神道』と呼ぶということについて話をしています。神道における神様は、『八百万の神々』と呼ばれるように数え切れないほどの神様が存在し、それは自然界のあらゆるものを奉る『自然神』と、亡くなった方の霊魂を奉る『人格神』に分かれています。信仰とはいえ、宗教と異なることは、『戒律』というものがなく、時代に合わせて、その形を変えてきたという歴史があります。このような信仰があった古代日本では、『大和言葉』と呼ばれる今よりも単語数の少ない言葉を使っていて、天や海を『あま』と呼んだりと一言の意味が広い形で使われていました。

ということまでは話しました。



今回は、少し時代を進めて古代日本から、明確な支配体系ができてきた大和時代へと話を移したいと思います。

このころの日本においてもまた神道は広く根付いていました。そのような時代で各集落を統治するだけでなく、日本全体を支配、統治しようとした集団がいました。それが今に続く皇族の方々であったといいます。

そして、最初の天皇といわれる神武天皇(紀元前660年即位)やそれ以前の神話の時代から持統天皇までの歴史を綴ったものが『日本書紀』であり、現在の私たちが当時を知る唯一の書物であります。

ちなみに『古事記』も古代日本を記した歴史書であり、今の我々はこの2つの書物を調べることでしか当時を知る術はないのです。



話を戻しますが、日本書紀によると、神武天皇は支配体制を確立する為に、神道を利用しています。つまり自分が神の末裔であり、日ノ本を支配するに正統な理由があるとしています。それが、『天壌無窮の神勅』(てんちむきゅうのしんちょく)です。内容は天皇の祖先神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の命令を受けて日本を統治したとあります。詳しく述べると、「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国『日本』は我が子孫が王たるべき地であるから、皇孫(すめみま)(天照大神の孫)であるお前が治め、天地が終わるまで子孫にその皇位を伝えていけ」との言葉を受けて、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が皇位を象徴する三種の神器を携えて、日向国の高千穂に降ったのである。そして、その曾孫である神武天皇が支配体系を確立したということです。



ですが、そもそも天照大神という神様が、庶民に受け入れられなければ、この説は庶民を説得できるものではありません。なぜなら、いきなり『俺様は神様の子孫だー!だからこの国は俺様のものだー!』なんて言っても、それまでの古代日本の住人を納得できるはずがありません。当然です。彼らは自分たちよりも高い能力者で、より良き方向へと導いてくれる指導者にしかついていこうとはしない民族であったからです。では、どのようにして天照大神という神様の存在を広めていったのでしょう…?

次回はそのへんから話していきます。

今回はここまで。

ではまた。

2009年7月7日火曜日

知ってるようで知らない神道、その4

こんにちわ、s.a.iです。

珍しく4日連続で書いてますwww

さて、前回の続きですが、今回は古代の『言葉』についてからです。
古代日本で使われていた言葉、それは『大和言葉』といわれ今の日本語の大元であるといいます。その単語数は今ほど多くなく、『言葉』は多くの意味を持ちました。その為、広い意味で同じものは一つの言葉で表されるのが当たり前でした。
例をあげるならば、現在の『空』のことを当時は『天』(あま)と呼び、また『海』も『海』(あま)と呼び表わしました。これは、両方ともとてつもなく広いという意味だったといいます。まぁ、空も海もその端がわからないくらい広く感じたものですから同じ意味だったんでしょう。
同様に『神』(かみ)とは『上』(かみ)のことであり、自分たちよりも高い能力を持つ者、または自分たちが遠く及ばないものを指し示したとされています。
そのため、とある地方では、人間よりも早く走ることのできる狼を『犬神』と呼び、ある地方では、人間には叶わない空を飛ぶことができるカラスを『神の使者』としたとあります。
同様のことで、自然に対しても同じ意味を持たせたといいます。大地に光と暖を与える太陽は『日神』、夜の暗闇を照らす月は『月神』、山には『山神』、海には『海神』というように、自分達にない力に対して上(神)と呼んだといいます。
後に、自分たちを統治する人物もまた自分たちよりも高い能力者であるということから、死後に崇めるという風習ができてきます。自分たちを統治する存在、すなわち大王(おおきみ)は死語に神となり、自分たちを守ってくださる。その為に崇め奉ることが必要であることから、『前方後円墳』という塚(墓)ができました。祖霊信仰の始まりです。神道の世界では、このように自然界のあらゆるものを神とする自然神と祖霊を神とする人格神の2種類が混在する形へとなるのです。

ちなみに、学問の神といわれる『菅原道真』などは、死後に京の町に祟りと雷雲を呼び起こしたといわれ、学問の神であると同時に、雷神でもあるとされています。時代が進むにつれて、このように祖霊を奉ると共に鎮魂の意味も持つ場合があり、道真公は人格神、自然神のどちらも兼ねるなんてことも出てきますが、それは後々の話。

とまぁ、ありとあらゆるものを奉ってきたため、神道の世界では『八百万の神』(やおよろずのかみ)と称されるように、多くの神様が登場することになるわけです。

今回までで、神道の概ねの考えが理解できたのではないかと思います(ホントか?)
なので、次回からは、時代を進めて『日本神話』の話へと移りますw
やっとそれらしい話に移れるwww
ではまた。

2009年7月6日月曜日

知ってるようで知らない神道、その3

こんにちは、s.a.iです

前回の続きです。

今回は、神道が生まれた古代日本についてです。

古代日本はどんな社会だったのでしょうか?
それは神道の根底にある考えから想像することができます。
神道では、皆が楽しく健やかに過ごすことこそが『生霊』(むすひ)といわれる最高の境地であるとされています。これは、今でいう『結び』の語源ともいわれています。
その為、人間同士が仲良く、楽しく過ごすための指導ができる人物が、その集落を指導する立場へと推挙されていったといわれています。つまり、繁栄をもたらすことのできるよりよい人間関係が築ける人だけが統治を許されたのです。
なので、自己中心的で己のみ裕福を貪ろうとする指導者は民衆から反感を買い、失脚してきたといわれています。これは、現代の日本でも言えることです。つまり、現代の社会でも古くから伝わる神道の考えは生きているのです。

故に、『どのようにすれば民衆の支持を得られるか』を考えなければ、指導者としての地位は保てなかったのが古代日本の社会です。それ故に、決められた『戒律』などを持たず、流動的に時代に合わせた考え方をしてきたのが『神道』なのです。

今では、(結婚式などで、しきたりがある)神社が多いですが、それも現代の日本を指し示している為だといえます。つまり、今の日本は法治国家です。法が全てなので、神道の考え方から、時代に合わせていくと『法』ともいえる『しきたり』や『順序』、『形式』を重んじるようになったのは間違ったことではないというのがわかります。

では、話を古代に戻しますが、本来の神道とはどんなものでしょうか?
先に述べたように、皆が幸福であることこそが『生霊』(むすひ)といわれる最高の境地であるとされています。古代日本での幸福な暮らしとはいかなるものでしょうか?
それは、自然の恵み溢れる暮らしだったといいます。その為、崇め奉る対象は自然だったのです。つまり、神道の本質は『自然崇拝』であるわけです。
一文で表すならば、『自然の恵みに感謝して、自分が住まう土地にあつまる多くの霊(神)をもてなし奉る』ことこそが神道なのです。なので、多くの霊(神)を一度に祭るという、結構あいまいな形なのです。その為に、神道は一神教ではなく多神教の形式なのです。

というわけで、今回はここまで。
神道の本質を語りました。次回は神道と日本語の繋がりから書いていきます。
以上w

知ってるようで知らない神道、その2

こんばんは、s.a.iです

珍しく書く気が出ているので、今のうちに書こうと思って書いてますwww

さて、題名の通りですw
今回から、ちょっと真面目に日本を知ろうをやっていこうと思いますw

まず、神道(しんとう)と読みますw
(知ってるかwww)

神道とはいったいどんなものでしょうか?
神道とは、『スーダラ無宗教国』と噂高い日本人が、古くから信仰している『道(とう)』です。
宗教とは違うの?と思うかもしれません。
ですが、欧米各国の宗教(キリスト教やイスラム教など)と、明らかに違うことがあります。
それは、神道には『明確な戒律がない』ことです。
欧米に多くみられる宗教のほとんどは一神教(唯一神を信じる)です。(エジプトを除く)
各々が神(唯一神)を信じることで、神は人々に幸福を授けるとされています。また、幸福を得るために多くの戒律を守らなくてはなりません。(イスラム教などはこれにあたります)
そして、戒律を破ったものには神より罰が与えられます。ただ、神が直接罰を与えることが困難であるために、人が代わりに罰を与えるのです。
同様に、広い解釈をしたために起きたのが十字軍などによる戦争です。これは、神の教えを信じる人たちから見たら、神の教えを信じない(又は違う神を信仰する)民族=戒律を守らない民族となり、罰を与える対象であるという処から始まります。
という位に、欧米各国の宗教には、『戒律』というものが宗教のなかで大きな役割を持っています。
そして、日本人が古くから信仰していた神道には、その『戒律』がないのです。大切なことなので2度言いましたw

つまり、宗教と道(とう)の違いは『戒律』なのです。

では、なぜ神道には戒律がないのでしょう…?
それは、緑豊かな大地が豊富にあるこの島(日本)に起因します。そして気候、気象なども影響されていると考えられています。というのは、日本では、自然は恵みを与えてくれるものです。なので、(こういう言い方をすると欧米各国の方々に悪い気がしますが…)自然の驚異とはあまり関係ない生活が約束されていた為に、皆が幸福であるという事が前提であったので、戒律などで生活を縛る必要がなかった為と考えられます。

え?台風や地震などの災害があるじゃないかって?
そうです。自然の驚異は日本にも多大にあります。しかしそれは一過性のものばかりです。

それに対して、イスラム教圏は特に砂漠地帯が多くを占めています。つまり自然は常に驚異であり、幸福を与えてくれているものではなく、試練を与えるものであったと考えられるのです。なので宗教の戒律を守り自然とうまく付き合うことが宗教の目的の始まりであったとされてます。

つまり、神道の考え方からいけば、災害は神の一時の怒りとされ、砂漠地帯を代表とする環境の厳しい地域では災害(というより環境そのもの)に常にさらされているものというような考えが定着されているのです。

このように、日本の神道は、宗教とは根底にある考え方から真逆であるというのがわかると思います。
なので宗教(教え)とは違う『道(とう)』なのです。


疲れたから、今日はここまでw
次回は、神道の本来(生まれた頃)の考え方から書き込んでいきます。
あ~、つかれたw

2009年7月5日日曜日

知ってるようで知らない神道、その1

こんにちは、s.a.iです

題名の通り、神道について話そうかなぁ…と思ってみました。
どこまで続けて書けるか分からないけど、連載するつもりで書いてみますw

まず、神道といわれてどこまで説明できますか?

靖国神社…?
古事記…?
天津神と国津神…?
因幡の白ウサギ…?

まぁ、いろいろと話はできると思いますが、どれも詳しく説明できないのではないか…?
そんなことで日本人やってていいのだろうか?
というか、毎年毎年、総理が靖国神社に参拝することに、いちゃもんつけてくる韓〇や中〇の人などは、真に神道の考え方を理解してもいないのに、言いたいだけ言ってくる。そんな時期になってくるので、日本人である僕らがちゃんと理解してないとイカン!
とまぁ、そんな風に思った次第ですよw

ということで、次回からちょいと真面目な話をつらつらと綴っていきますので、どうぞお付き合いくださいw