2009年7月23日木曜日

知ってるようで知らない神道、その9

おはようございます、s.a.iです。

前回の続きです。
古代日本人は、『穢れ』という概念を持っていました。それは『気枯れ(けかれ)』ともいい、気持ちが落ち込んだり、生きる力が失われたりと、大きな意味での生命力低下を意味していました。そして穢れた時、人は間違いを犯し、その度合いが酷くなれば罪を犯す。そういう考え方を持っていました。つまり悪い事をしてしまった、良心に恥じいる行いをしてしまった。そういう時、穢れたといい、穢れを清めることが大切なことであるとされ、穢れを清めるということを『祓い』または『穢祓い』といいました。

今でも悪い事をする人を『きたないやつ』といったり、悪いこと、卑怯なことを『きたないこと』と呼ぶことがある。これは、穢れたこと→清めるべきこと→汚れたこと→きたないことという繋がりがいまでも残った言葉だと言われています。つまり今でも大昔から繋がる神道の考えが浸透していることを意味しています。
というように、犯罪者として裁かれることがなくても、悪い事、卑怯な事を忌み嫌うという心を日本人はずっと持ち続けてきました。(時代劇風に言うと、恥を知れ!ってやつですね)これも、日本人が昔から、良心に恥じいる行為そのものを嫌う、またそういう事をする人を嫌うという清い精神の現れなのでしょう。

人が穢れたとき行うこと、それが『祓い』です。祓いは自分の心を清める行いのことです。例えば、人が罪を犯してしまった場合、水で身体を流したといいます。水は服の汚れや食器の汚れなど、多くの汚れを流してくれるという処から、身体に水をかければ、心も清められると考えられたようです。これが『禊祓(みそぎはらえ)』という行いで、心を清めることで、自分に二度と罪を犯さないという誓いを立てるのです。
これは、日本書紀にも書かれていることで、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国(死の国)に赴いたとき、死の穢れに触れてしまった。そのため、筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわぎはら)の河原にて身を清めたとあります。(宮城県のどこかの小さな川の河口とされてますが、架空の地名らしい)
神社の手水舎で手や口をすすぐことも、簡素化した禊祓であります。

昔から禊ぎをしたものは、社会に温かく受け入れられてきました。それは、罪を犯した事は穢れたせいであって、人そのものが悪いわけではないという考えからきているといいます。穢れさえ祓えば元の通りの清い人間になると信じられてきたのでしょう。それが今も残っているのが、『刑務所でしっかりと罪を償ったもの』を受け入れようということだと思います。ですが、最近は犯罪そのものが多くなっていることと、凶悪化が進んでいることにより、こういった神道の考えそのものが失われつつあります。罪には罰を。これは当然です。ですが、償い(禊ぎ)をした人を赦すという寛容の心も失われ、極刑ばかりを求めてしまいがちな今の社会は、人そのものよりも、もっと大きな社会そのものが『穢れた』存在となってきているのかもしれません。
神道のすべてを正としろとは言いませんが、大昔から考えられてきた事は決して間違っていたとは思いません。自分の行いを正すという気持ちを持つこと、穢れを祓った人を赦すという心、そういった事が出来る清い生き方が出来るように努めたいものです。

6 件のコメント:

  1. 連載も1年先まで、ながーいお付き合いかなw

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  2. 桜子しゃま>
    ん~20回くらいで終わるかと思ったんだけど…
    古代~の考え方などの基礎的なところで半分つかっちった。終わるかな…?

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  3. そうかい、シャバの空気は冷たいかいw
    そしたら、もう、プロ野球チップスの中身だけ抜いて万引きなんてチンケな真似はやめるんだなwww

    まぁ、ダーティーとピュリティーの違いは万国共通な気もするんだけどね。

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  4. 先生>
    せんせ-、ごめんよ~><
    Jリーグチップス買い漁って、ポテチの方だけを会社の先輩のロッカーに大量に隠したりとか、もうしないよぉぉw

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  5. 続きは、まぁだ?

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  6. あいあいw
    ちゃんと書きましたよ~w

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