2009年7月29日水曜日

知ってるようで知らない神道、その11

おはようございます、s.a.iです

そんじゃ第11回行ってみましょうかw
今回は江戸時代にないってからの神道について話します。

江戸時代に入ってからの神道は、古代~平安にかけての神道とは大分異なります。それまでの神道では、集落の中に神社は中心に置かれた。
しかし、それ以降武士が世の中を治めるようになると、集落の中心は武家屋敷となり、神社は商工民の中心となった。その理由として神社にてお参りする人達は商業や工業に関わる人達が多くなり、同じ業種の人達が集まって門前町の様に町が出来上がった為です。他にも武家がお参りした八幡神社も多く建立されましたが、武家町の他に建てられました。こうして出来上がった街を支配する為に、武家は神社に対して領地を認めます。これが『社領』です。神社はこうして大きくその姿を変えていきます。商工をまとめる領地を持つことになった神社は取引に税金をかけます。その税金を武家へ納付することで更に商工をまとめることを認めさせます。室町~安土桃山まではこうした取引が成立していました。しかし、織田家の台頭により楽市楽座が敷かれ、神社は元の信仰を取り戻すのです。(神道における腐敗時代といえます)
こうした経緯もあり、江戸時代に入ると政治とは切り離された存在となります。(むしろ政治に密接だったのが仏教だということですが)ただし朝廷は違いました。元々皇室を奉る様に造られてきた信仰です。朝廷だけは神道との結びつきが強く残りました。

江戸時代へ入る頃の神道を語る中で欠かせないのが、修験者の存在です。所謂『山伏』という存在です。これは古くは平安後期より存在した人たちですが、今でも地方に伝わる修験道に関する事の多くは明らかになってません。それくらい密かに伝えられてきたものであるといいます。平安後期吉野地方に発展した林業、そこから修行する人達が集まってきた為開かれた熊野大社などはいい例です。そして山伏となって各地を修行と称して歩き回った人達の役割で重要な事が、農民達の治療です。集落の農民にとって山伏は外部の情報を持ってきてくれる情報源であり、病治しの呪法を施してくれたり、読み書きを教えてくれる先生でもあったといいます。
江戸時代に入ると、幕府はこうした山伏に対して定住を求めます。そして出来たのが『里修験』という人達です。彼らによって人里に多く神社が建てられたといいます。ただ熊野大社を始めとする各地行脚の修験者は数を少なくしていきます。理由として交通整備がされるようになったことと、山伏がもたらす情報は貴重ではなくなってきたためと考えられてます。

このように、中世~江戸にはいると信仰対象に流行がありました。武家が祀った八幡神、朝廷が信仰する天照大神、修験者の多かった熊野三社など、その時々によって必要とされたものが違うため、神々にも流行があったのです。江戸時代に入ってからも流行はありました。それは商業を司る神様です。所謂『福の神』の誕生です。大黒様や稲荷様などはこのころから広く信仰されてます。自分達に利益がありますようにという事を願い信仰されたのです。

また江戸幕府が厚遇したのが『吉田神道』といわれるものです。これは室町後期に京都の吉田神社(春日大社から分かれた神社)に仕えた吉田兼倶が興した宗派で仏教を神道の下に置くというものです。吉田家は、自家の神道は、天照大神のもとで祭りを司った天児屋根命(あめのこやねのみこと)から伝えられた由緒正しいものであると主張した。
この吉田神道は次第に大名や朝廷に広まった事で全国の神社の指導者的存在になっていきます。その為、幕府も見過ごせない存在となり厚遇することになっていくのです。
ただ、江戸幕府は、寺社に対し政治への介入を禁止しています。(とはいえ高僧が幕府を支えたのも事実ですが…)その為、武家を支える学問的存在へと、その姿を変えていくのです。

では、次回は幕末までの話を書いていきます。

2 件のコメント:

  1. 頑張って書いたねぇ。。。ふむw
    吉田神道は、日本史の時間に聞いたような気もしますがw

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  2. 奥様>
    ほぅ、歴史の授業にあったんだw
    おいらの頃にはなかったような気がする…。

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