2009年7月30日木曜日

知ってるようで知らない神道、その11.1

おはようございます、s.a.iです。

第11回で大分駆け足感が残ったなぁ…って思うので、補足書き足しです。
補足1として今回は『修験者』について書きます。

修験者とは、どんな人達でしょう…?
世間一般的には『山伏』といわれる人達です。修験者とは、修験道の実践者であり、修験道とは、山に籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とする日本古来の山岳信仰と仏教とが習合した日本独特の信仰です。

修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとする、古神道の一つである神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)という山岳信仰と仏教が習合し、そこに道教、陰陽道などの良いところも加味されて確立した日本独特の信仰です。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって超自然的な能力「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な信仰です。この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ様になったといいます。 その起源は奈良時代で、開祖は役小角(役行者)といわれていますが、あくまでも役小角は伝説的な人物なので史実は不詳です。
平安時代に入ってから、この信仰は盛んになってます。平安初期に伝来した密教との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。密教との関係が強かったことから、独立した信仰ではなく仏教の一派と分類されることもあります。
江戸時代に入ると、幕府は慶長十八年(1613)に修験道法度を定めています。真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないという法度です。これにより、修験者は自由な信仰とは言えないものになったと言えます。
大政奉還後、明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止されました。また廃仏毀釈により関係する物などが破壊されています。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもあり、御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られます。

このように、修験道は山岳信仰を元にして、多くの信仰を取り入れてきた過程があります。これは、神道に通じるものがあり、古くから伝わってきた柔軟な思考が伝わったものと思われます。

追記
鎌倉時代~江戸時代までの山伏には、修験の他に役割を持つものがいました。それは『忍』と呼ばれる存在です。各地を歩き回り情報交換をする山伏は忍として、優秀だったことでしょう。または、忍が山伏の姿で各地の情報収集をしていたとも言いますが…wま、これは後々書きますかw

2 件のコメント:

  1. なんか、無理言って、書かせたようで、
    ごめんなさい
    私は、修験道は、どちらかというと、神道より仏教に近いものだと思ってましたので、宗教としての確立過程が詳らかにされて、独特の色合いがあるのに合点がいきました
    どうも、ありがとうw

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  2. 奥さん>
    神仏融合した様な信仰だから、どちらとも取れるし、どちらでもないというのが答えかもしれないです。まぁ、なんつーか、神道もそうだし、修験道もそうだけど、宗『教』じゃないんだよね。『道』なんだよね。
    だから柔軟であり、向き合うのは神様じゃなく、己なんだよね。そこが宗教ではないところだと思ってます。

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