2009年8月5日水曜日

知ってるようで知らない神道、その13

こんにちわ、s.a.iです



今日もだらだらと暑い一日です。

今回は明治維新に入ってからの神道の変化と周りについてからです。



明治維新後、日本は幕府体制から天皇を中心にした政治に切り替わります。
ですが、以前のままの姿に戻っても、それは退化したのと同じであり当時の世界から見れば、一歩も二歩も世界に出遅れていた日本にとってはマイナスなことでしかなかった。
そこで、当時の政府(長州・薩摩連合)欧米各国の政治を学び、日本の政治にも取り込むことを考え、実践した。
だがここで重要な問題が発生した。
それは、幕府を倒したのが、尊王攘夷派であったということ。
彼らを納得させる形の政府(内閣)を作らなければ、戦争は振り出しに戻り内戦状態になってしまう。そうなれば、占領地を、喉から手が出るほど欲しがっている欧米各国の餌食になることは明白であった。
尊皇攘夷派の反乱を抑えるため、当時の政府は、次のように発表している。

『天皇陛下によって明治維新がなされ、天皇親政が実現された』

つまりはこうである。尊王攘夷派にとって、天皇陛下を奉り、幕府を倒幕することは一つの目標である。
そして、外国の驚異を排除し、神聖なる国を再興すること。
これこそが尊王攘夷の真髄ともいえる。
だが、明治政府は外国の文化を評価し、その政治体制を取り入れようとした。
これではせっかく倒幕したのに、外国に染められては、日本が日本ではなくなってしまう。
なので、尊王攘夷派の思惑とは異なってしまう為、反乱がおきる可能性があった。
なので、天皇陛下が親政を敷いて、その政治の仕組みをして、合理的な欧米の方式を取り入れようという発表をしたのである。



こう言われては、尊王攘夷派もただ黙って言う事を聞くしかなかったのである。



明治政府は、積極的に欧米各国の重火器を日本国に取り入れなければならなかった。

なぜなら、このころから、重火器の拡充こそが国力を高める(つまり富国強兵)最重要項目であったからである。だが、江戸時代より続く国学が染み込んだ庶民に対して説得しなければならない政府は、古来からの神道による神々への祭り(政(まつりごと))を判る形にしなければならなかった。
その為、明治元年(1868年)に仏教の影響を受けた神道を完全に仏教と切り離す政策が打ち出された。それが、『神仏分離令』である。

平安時代の半ばより、少しづつ神仏習合されてきた為、神は仏事を喜ぶものとされてきた。それもあって、多くの神社では、読経されることも少なくなく、また神社において、坊主が説法するなんてことは多々見られた。しかし、明治政府が打ち出した法律により、こういった社僧(しゃそう)達はその職を失うことになった。更に、神仏分離令によって、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という考えが蔓延し、多くの寺院が取り壊されるという事態を招いた。正確な数字はわからないが、これによって、当時の寺院の約半数が無くなったと言われている。ただし、この法律が出来たからこの事態を招いたとは言い切れない。なぜならば、江戸時代に入ってからの僧侶の多くは、寺院の運営や葬礼によって、多額の利益を得る僧侶が多かったからである。その為、大した修行もせず堕落した僧が多かったことも影響していることは確かである。



明治政府は、他にも法を打ち出している。
明治4年(1871年)には、『神社を国家の祭祀とする』政策をだしている。

これによって、更に国家神道は勢力を拡大させるのだが、政府は神社にたいして布教活動を禁止している。『すべての祭祀は国家の為に行うもの』という考えからである。


こういった神道にたいする統制は、昭和20年の終戦まで続いていくのである。




今回はここまでw

2 件のコメント:

  1. 政治に振り回されて変遷してきた経緯が、よくわかりますね・・・・・
    何というか、ご都合主義?そんな感じがします

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  2. 桜子さま>
    まぁ、そうね
    こうして戦前までの天皇バンザイは出来上がったんですよ

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